キリストとの合一

2019.06.30 週報 No.2019-27

今週のみことば

このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
ローマ人への手紙6章11節

<説教のアウトラインー 岡部 敬牧師>

パウロはイエス・キリストの福音、主イエスこそ、神が遣わして下さった独り子であり、救い主であることを、命がけで語ってきました。
ローマの教会の人々にも、キリストの福音の素晴らしさをこの手紙で書き送っています。
その中で、福音に対する誤解や間違いに陥らないようにと注意を促しているところがあります。

1)「罪の中にとどまるべきでしょうか」
罪が赦されることが恵みであるなら、より大きな恵みを受けるためにはより大きな罪を犯した方が良いのだ、その方が得だ、という批判、また悪意ある揚げ足取りがあったのです。
私たちはさすがにこのように屁理屈は言わないかもしれませんが、福音を信じることが「このままでいいのだ」という思いを生み、罪の中に留まり続けてしまうということがあるのではないでしょうか。実は、これが私たちの問題なのです。

2)罪に対して死んだ
パウロは「絶対にそんなことはありません」と非常に強い否定の言葉で答えます。罪に対して死ぬことは罪との関係が断ち切られ、その支配から解放されることです。
キリスト・イエスの救いにあずかり、キリストに結ばれているなら、罪に対して死んで、罪の支配から解放されており、罪の中に留まり続けることはありえないことなのです。
キリストによって罪を赦されて義とされることを「義認」(立場)、その救いにあずかったものが神に従って新しく生きる者となることを「聖化」(状態)といいます。

3)キリストと結び合わされることによって
私たちが罪に対して死ぬことは、主イエス・キリストを信じ、主イエス・キリストと結び合わされ一体となるところに恵みによって与えられるのです。
義認には聖化が伴います。その聖化の歩みは、洗礼を受けて生きるところに与えられていくのです。11節「思いなさい」という言葉が重要です。罪に対して死んで、罪の支配から解放されている、このことを本当に信じて、受け入れて生きるなら、私たちは罪から離れて聖化への道を歩みだしていくのです。