日光市のキリスト教会 大沢バイブルチャーチ

すべてを益としてくださる神様

神様のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。
伝道の書3章11節

大沢バイブルチャーチ 関根晴美
いつの時代でも、生きていくのに何らかの問題を背負いながら人々は生きております。
私の人生を振り返って考えてみても、戦時中育ちましたから、様々な困難が家庭生活の中にも、東京から疎開(空襲を避けるために、地方に疎開させられた)したときも、子供心に(何で生きるってと言う事は大変なことなのだろう)と思いながら暮らしていました。

でも、戦争も終わりました。万事解決、それで問題なしだろうか?
戦争があるときも、終戦になっても、生きることは大変な事だなと思いながら、学生生活を終え小学校に就職しました。
時代が変わっても、周りの環境が良くなっても、どうしてでしょう、人生の苦労、寂しさ、悲しさ、はつきまといました。
貧富の差能力の差階級の差を自分の人生に感じながら、生きていると押しつぶされるような、思い出の日々を過ごしておりました。

私の父母は、戦前、結婚する以前からクリスチャンとしての信仰を持っておりました。しかし、戦時中は、クリスチャンとして証を立てながら生きることはとても大変な時代でした。
そんな時代でも、たとえ牢に入れられても、信仰の光を閉ざさないで証を立てられた方々もおりましたが、信仰を捨てたわけではないが、ひっそりと自分の心の中だけの信仰を細々と守ってきた時代がありました。
千葉県に学童疎開しているときも、クリスマスの時などに私も教会に行きました。
しかし、そんな闇黒な時代も終わりを告げるときが来ました。
暗黒の時代それはいつの時代でも、どなたの生涯にもあります。
戦争…だけが人生の闇黒ではなく、どんなに平和が続いている時代でも、他の人から見たら、幸福そうに見える人の人生にも、不満だらけ、私だけがなんて不幸なんだろう、他人と比較しながら生きていく人生には、真の満足充足感を持つことができません。

私も、終戦になり、信仰の自由な時代になりましたが、教会生活よりも自分に与えられた教師の働きと、中学生時代から大好きだったテニスに夢中になっていました。
念願だった、第8回四国の松山国体に学生の時に出る機会も与えられました。
わたしにとって、テニスは人生の生きがいになっていました。
父や母も、戦後は中々教会に結びつきませんでした。
しかし、終戦後、父が開業していた座間市の歯科医の近くに、小さな教会ができました。そこに牧師として来られたのが故人となった、大川博道先生でした。母は戦前、神田の教会で日曜学校の奉仕をしていたときに、同じ教会員だった大川博道先生(当時は青年)は一緒に日曜学校の教師でした。神様の導きってすばらしいと思いました。
母の信仰生活が復活しました。

でも、私は(私にとって生きるのはテニスです)と言う生活を崩しませんでした。日曜はテニスの日と決めていました。
何年も過ぎて、父が召され、後を継いで歯科医になった弟の義妹が、教会に行っておりました。近くにできた教会が発展し、大川従道牧師が牧会し座間駅の近くに大きな会堂を建てて集会をしていました。

ある日「お姉さん教会に行きましょう」ッと誘われました。
、(でも、私は日曜にはテニスがあるから)と内心拒否していました。
しかし「教会では朝早く7時から第一礼拝があるから、それが終わってから、テニスに行ったら?」と誘われ、テニスに間に合う?これが条件で教会の第一礼拝に行きました。

もう遠い存在になっていた教会の門をおそるおそるくぐりました。
これが終わったら、テニス仲間が待っているテニスコートに行こう?」と思いながら、冬の寒い朝7時の第一礼拝に出席したのです。
礼拝が始まりました。
音楽主事が賛美リードしていました。
礼拝の招きに続いて、音楽主事の独唱がありました。
「輝く日を仰ぐとき♪」が朗々と会堂に響きました。その響きは会堂の中だけでなく私の心にも響き渡りました。
私の心はその賛美でいっぱいになりました。自分では理解できない、
大きな感動が体中に染みわたりました。涙が溢れてきました。
私の人生に神様の臨在を深く深く感じる時でした。
その日、その時から、生き甲斐だったテニスのラケットは私の手から離れました。「私にとって生きるのはキリストです。」という人生になったのです。
そして、何十年か過ぎて、その賛美をされた音楽主事、関根宣義さんの母上が召され、そのお父さんと私は結婚する事になりました。
「神様のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。」伝道の書3:11