日光市のキリスト教会 大沢バイブルチャーチ

セキネ牧師の回顧録

あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、 あなたはそれを見いだそう。
伝道の書11章1節

大沢バイブルチャーチ 関根辰雄
2016年11月、オリーブの里聖会にて、私の米寿記念聖会を開いてくださった。子どもたち(と言っても3人とも還暦を過ぎている)がその打ち合わせに集まったときに、どんな集会をしようか?
何を歌おうか?と話し合っていたときに、子どもの頃に一番想い出になっているのは、「路傍伝道に連れて行かれたことだったそうだ」…厭だったなー
と言うことと、お父さんのタンバリンが上手かった事が心に残っている、と言うことになり、そこで、あの頃の想い出に「ただ信ぜよ!」を、お父さんがタンバリンを叩いて、みんなで歌おうと言うことになった。

「もう50年近くタンバリンをやってないし、持ってないよ」と言ったら、すぐに買って送るから、ということになり、米寿記念聖会の中でタンバリンで、「ただ信ぜよ」を親子で路傍伝道的に歌い?会衆も喜んでくれた。

その企画をしている時に、「お父さん、あんな事(路傍伝道)をして救われる人がいたの?俺は同級生が通ると恥ずかしくて困ったよ?」と疑問を投げてきた。
お友達が通ると、持っていたチラシを隠して目を合わせないようにしていたそうでである。

私が伝道者になった560年程前は最初の足尾教会にも尾島教会にも今市教会にも太鼓提灯(神は愛なりと書いてあった)タンバリンが備えられてあり、路傍伝道には信徒の方も参加していた。

足尾教会に赴任したとき長男は小学校4年生、つけられたあだ名が「アーメン屋」だった。
その長男が足尾から尾島に転任した数年後、路傍伝道で証をしていたときに、高校の先輩がそれを見つけて(お前、いい度胸をしているな?応援団に入れ、)と言われて応援団にスカートされたそうだ。

戦後、日本の教会はまだまだ保守的で、礼拝の賛美はオルガン(ピアノはあまり適当でない?等の意見があった時代)若い宣教師がギターで歌うのに、年寄りの信徒は顔をしかめていたときもあった。
礼拝はオルガン路傍伝道は太鼓とタンバリンが定着していた。

蛮カラな路傍伝道に辟易していた子どもたちが高校生大学生になった頃、ギターに夢中になり、バンドをつくった。
名前は3人の頭文字からNHKバンド?
NHKから苦情が来るほど立派なバンドではないので,結構それであちこちと奉仕したが、その後、ファミリーと改名して奉仕していた。

振り返ってみると、、子どもたちにはバイブルキャンプには休まずに連れて行ったり、伝道旅行に3人の子どもたちがバンドで集会に奉仕して時には、北海道から北陸の方までよく一緒に伝道したものだ。

有名な榎本保郎牧師の一日一章旧約(伝11章)に同志社大学の神学生の頃、路傍伝道の奉仕を牧師に連れられて、太鼓提灯をもって待ち角でした事が記されている。。
誰も話を聞いてくれる人がいない。一生懸命賛美し説教をしたが、誰一人聞いてくれない、何ともいえない厭な複雑な気持ちで教会に引き上げてきた時、心ない子どもたちが、「アーメンソーメンヒヤソーメン」とからかわれた。腹が立って後ろを振り向き子どもたちをにらみつけた。

それから20年ほど過ぎ、派遣されている教会に、同志社神学部の新卒者が派遣されてきた。履歴書の住所を見ると、かつていた教会の近くであったので、こんな事があったと話したところ、「あのときに、アーメンソウメン、ヒヤソーメン」と言ったのはこのボクです。ボクはあれからしばらくして教会に行くようになったのです。」
榎本師は奇しき神のみ業にしばらく何も言えなかったそうだ。
(一日一章旧約より)