信仰に救われた心 平和説く

2023.09.04 朝日新聞 人・ひとめぐり

予科練出身の牧師

関根辰雄さん(94)=日光市

杖を頼りに歩くようになっても、礼拝説教の声は衰えることなく、教会中に響く。海軍飛行予科練生(予科練)時代、真冬の海岸での号令訓練で鍛えたのどが生きている。
14歳で志願した。競争率何十倍もの試験に合格した。埼玉県の旧大河村にあった国民学校(今の小学校)始まって以来の快挙と言われた。1943年12月、三重海軍航空隊に入った。
「国のため、天皇のため、死ぬのは当たり前でした。こんな名誉はない、とおだてられてね。みんな見送りに来たけど、母親は泣いて、泣いて、家から一歩も出てきませんでした」
毎日のように鉄拳制裁を受けた。ある時、同期の友人が並べてあった銃を倒した。≪恐れ多くも天皇陛下からお預かりした銃を足蹴にするとは何事か≫。班長は血相を変え、カシの木のこん棒で殴り続けた。震えながら見るしかなかった。
「間違って倒しただけじゃないか。天皇って何?同じ人間じゃないの?」
もちろん口には出せない。疑問が渦巻くまま予科練を終え、横須賀の部隊に移った。
そこでは乗る飛行機がなかったが、「特攻」の訓練をやらされた。ボートに爆弾を積み、敵艦に体当たりする。「これじゃあ、たどり着く前に見つかって撃たれる」。成功例を聞かないまま、16歳で敗戦を迎えた。
進駐軍は郷里にもやってきた。チョコレートをねだって子どもたちが群がった。若い日本人女性が米兵といちゃいちゃしながら車両に乗っていた。「父や兄が米軍に殺されたかもしれないのに。こっちは死ぬための訓練を受け、名誉の道を歩んでいるという誇りと自負があったのに」
言いしれぬ敗北感を味わった。生きがいや目標を見失った。酒におぼれ、自暴自棄な生活を送った。運送会社に勤めたが、「飲べえ運転手」と呼ばれた。「予科練に行く前は立派だったけど、帰ってきたら『与太連』になってたね」。近所で陰口をたたかれた。
22歳のとき、転機が訪れた。痔の手術で入院中、看護師が持ってきた本の最後に聖書の一説が書かれていた。たばこを手に寝間着姿で近くの教会をのぞいた。それから時折、通うようになった。幼子が手を合わせて祈る姿を見た時、なぜか涙が止まらなかった。
じっくり聖書を読み、十字架にかけられたキリストの言葉に胸を打たれた。洗礼を受け、牧師をめざすために福島県の聖書学校に入った。27歳から3年学んだ。牧師になって64年になる。平和を願い、礼拝説教では時折、戦争の話もする。
「人間はみんな間違う。時代、時代で、価値観も変わる。それでも2千年もの間変わらない信仰がある。やめようと思ったこともあったが、歩んできた道は間違っていなかったかな」